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札幌で庭づくりをはじめて4年。                                                              ナチュラルガーデン&クレマチスが好き                                                        グレーと白のブチのウサギも飼育中

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昨日は尼崎事件のことをネットであれこれとサーフィンしながら見ていた。

ネットで表・裏のいろいろな情報がみることができ、色々な不特定多数の考え方や感じ方を知ることができるようになったのは、人間の進化にとても役立っていると思う。
ラジオやTVの前にいて、一方的に流される情報にさらされ続け、それが唯一の真実であると思い込んでしまうことは非常に怖いことである。

ネットをやる人にとっては当たり前のことをわざわざ書いてみたが、ネットの中でも上のような危険がないこともない。
それも、ネットを使いこなしている方なら百も二百も承知だろう。

ネットの中では文章があるだけで、顔色も声色もない。
文章だけで、書き手の意図を想像するしかない。
そこに簡単に見破ることができる落とし穴、巧妙に隠された仕掛け罠のようなものもある。
それは、その気になれば結構楽しめたりもするが・・笑


私の場合、ネットだけでなく書籍でもそうなのだが行間に漂うものに、あてられてしまうことがある。
幼いころから読書が好きだったゆえか、本や書き物の中に入りこみ過ぎてしまうのかもしれないが。


ところで、昨日感じていたことは「差別」

尼崎事件の舞台になった尼崎は、今ではそのお株をすっかり中国・東南アジアに譲ってしまったが、安くて豊富な労働力の供給地であった。


戦前の尼崎は紡績工場が多く、同じ杭瀬には大日本紡績(現ユニチカ)尼崎工場、さらに戸ノ内には毛斯綸紡績(後に鐘淵紡績)戸ノ内工場などとあれこれあった

ところでこの紡績工場の存在は尼崎の市外局番が何故か大阪市と同じ「06」であるきっかけともなった。明治時代、大日本紡績の前身である尼崎紡績の工場が作られ、明治29(1896)年、大阪市内の事業所までの直通電話を引くため13キロの区間に自前で電柱と電話線を架設し大阪の電話交換局に寄贈した。当時の尼崎には電話が開通していなかったのだ。

さらに戦後の昭和29(1954)年に市外局番が適用された際、尼崎市も大阪市と同じ通話料金で利用出来るように地元の経済団体や尼崎市が工事費の一部を負担して市外局番を「06」にしてもらったという。それだけ大昔から大阪と尼崎の結びつきが強かった訳ですな。もう、そこまでやるんなら最初から大阪市尼崎区でええやんと思ったんですが。


【尼崎市】尼のリトル奄美・尼崎市杭瀬の市場と商店街 (1)
http://osakadeep.info/2012/11/05/204801.html


尼崎には鹿児島や奄美からの出身者が多いらしい。
尼崎の尼  奄美の奄 と字は違うが同じ 「アマ」

アマが付く地名は日本全国、特に海沿いにあると思うが、このアマとははるか昔に海流(黒潮)に乗って日本にやってきた人々に由来するらしい。
海をアマとも読ませるし。
そしてこの人々の出発点は東南アジア辺りではなく、アラビア海辺りであるらしい。

この人々がいの一番最初に日本にやってきたのかどうかは確かではないが、陸路でやってくるよりは海路でやってきたほうが早かったと考えられる。
また、この人々が日本人の古層を成す人々ではないかと思う。

小林惠子女史は邪馬台国を奄美大島としている。

成田~空海~クロカモさん 
http://aoisekai487.blog7.fc2.com/blog-entry-578.html


卑弥呼がアラビア海からやってきた人(子孫)か、中国の長江あたりからやってきた人なのかはわからないが、海つながりでアマと呼ばれる人々と繋がってはいたのだろう。

そういう人々のまとめ役(祭祀者)として名が残ったのだろう。
ちなみにアマの人々は、女性優位で女がいなければ夜も日もあけないという考え方だったらしい。



奄美や鹿児島の人々がなぜ、尼崎に多いか・・
人は親類やつてをたどって移動することが多いだろう。

そして、尼崎には被差別部落地区がいくつかあるようだ。
移住者はその周辺に住むこととも多かったとある
(特に河口にできる三角州や川の中州、つまり地続きで歩いていけないようなところにおしこめた、尼崎だけでなく)




工業化がすすむ尼崎地域には、西日本を中心に各地から労働者が仕事を求めて移り住み、生活の場を形成していきました。沖縄や朝鮮半島からの来住者も多く、当時これらの人々は就職や居住の面で差別されていたことと、親戚・知人などの同郷者を頼って来住する場合がほとんどであったことから、特定の地域に集住する傾向が強く見られました。
 こういった集住地が、被差別部落やその周辺であるケースもありました。本節1コラム「在日朝鮮人」に紹介しているように、朝鮮人が多く住んだ守部〔もりべ〕の被差別部落周辺には、沖縄出身者も多く、昭和13年の「武庫村事務報告」によれば、同地区の人口構成は朝鮮人2,612人、沖縄出身者148人、もとからの居住者をはじめとする「内地人」986人となっており、いかに外来者が多かったかがわかります。武庫川改修工事をはじめとする土木工事に従事し、あるいは河川敷にバラックを建てて廃品回収などを始めた外来者に対して、長屋を建てて貸すことは村にとって家賃や日用品販売などの収入確保につながったうえ、農業用の下肥〔しもごえ〕を長屋から汲〔く〕み取ることもできました。同時に新たな住民たちは、農繁期の日雇い労働力ともなりました。



http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/04kindai/kindai4-1.html#kindai4-1-05


日本にやってきたアマとつく人々は、後からやってきた人々と差別された。
(歴史の中で差別されなかった時期もあったが、ここでは書かない)
もちろん、日本にやってきて差別されたのはこの人々だけではない。
日本海側から、やってきた人々も差別された。


被差別部落の問題が一筋縄ではいかないのがその辺にある。
差別されたのがある特定の民族、特定の特性を持った人々ではないのだ。
(その時々で支配者側から被支配者側に落とされた人々含む)
支配者はそれらの勢力を互いに争わせたり、反目させたりしながら、その間をうまく泳いで支配基盤を固め、実権を握りつづけているのだろうから、その辺を明らかにするつもりは毛頭ないだろう。


奄美大島のサトウキビの栽培で島津藩は莫大な収益をあげていたが、なぜ、同じ日本人にそこまで過酷な支配ができるのかと疑問に思ったことがある。
どこの大名&(商人たち)も民・百姓から搾り取るだけ搾り取っていたのかもしれないが、奄美に対してはすごすぎじゃないかと思ったことがある。

けれど、同じ日本人、同胞などと思ってなければ、これは当然の事であり、ヨーロッパから船出した人々が、先住民を虐殺したり、プランテーションでこき使っていたのと同じことが、日本国内・同じ藩内で起こっていたと考えれば、非常に納得のいく話である。

つまり、かつての先住民、奄美の人々≒アマの人々をこき使って砂糖で暴利をあげ、武器を購入し、明治の維新となったわけである。


明治維新につながった奄美のサトウキビ
http://aoisekai.blog.so-net.ne.jp/2010-05-08



尼崎事件には在日が関わっているようであるが、この在日は日本の被差別階層に最後に合流した人々ということになるだろう。

支配者たちは自分たちの手を汚さずに、日本の先住民、(かなり早い時期に渡来してきた人々)をいたぶり続けるの図になるのだろう。

支配者ももちろん、渡来してきた人々であるが。



*
追記

アマの人々は後からやってきた人々に差別されたと書いたが、もう少し。

アマの人々は差別されたが、労働力≒漁・製塩・農耕民としては重宝された側面もある。
騎馬民族も日本海側からやってきているが、彼らは農耕はしない。
日本が、紀元前頃までは、は大した争いはなく色々な場所からやってきた人々は、列島の各地に住み分けていたらしい。

しかし紀元後くらいから、大陸からやってきた支配者たらんものに捕らえられて、囲い地にいれられて強制労働させられたりした。

この囲い地が部落のルーツの一つでもあるようだ。
これだけではなく歴史が動いていくごとに、色々な限定地、囲い地ができてくる。



また、従わずに海や山に逃れた者たちもいた。
これが、サンカのルーツの一つでもある。
これも時代を経るごとに、様相が変わっていく。










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昨日は久しぶりの晴れ間、ちょっと長めの散歩にいってきました。

よくいく散歩道、



川の水が多くて轟々と音を立てて流れている。
もう少し行くと、



普段の水が流れている川筋がかなり広がって、川筋も増えている。




橋の上から、
川いっぱいに水が広がって流れている。
右の木の下まで水がきている、普段はない。

左の上にあるドームの屋根はセキスイアリーナ
フィギアスケートの大会やるところです。




これは帰りに撮った少し下流の橋の上から。
やはり轟々と流れています。


先日、どしゃ降りの時も川の水多いな~とみていたのですが、実際、川のそばを歩いてみるとかなり多いな~と実感。

調べてみたら、気象庁のHPによると、降水量はここ10日間では例年の3倍近く。ここ20日間では2,4倍くらい、前一月間では2倍(1,9倍)。

この川の上流の小金湯でもおなじくらい。
千歳空港周辺の恵庭・島松も同じ。
そして支笏湖ふきんになるとここ10~20日間は平年の4倍。

なんだか、気候変わっちゃったかも・・・


さて、散歩に行く時は真っ青な空





そして、真駒内公園





薄い雲がかかってきました。(ケムっぽい)

こんな雲も





うむむ・・・これはなんだろうか・・・ケムかな~

そして約2時間の散歩を終える頃には



南からもくもくと黒っぽい雲がわいています
ちなみに南は支笏湖方面。









庭のミニバラ、暖かいせいか、また花と蕾をつけていました。





チェリーセージもサルビアもまだ咲いています。






久しぶりに穏やかな晴れ、風は冷たく、やっといつもの北国の風に近くなりました。(それでもかなり暖かめですが)
おかげで外仕事ははかどりました。

暖かいせいか、まだまだ元気な花もありますし、季節外れで咲いているのも





アルケミラ・モーリス (レデョーズマントル)
(ピンボケですみません)
花は5月~7月です。
雨続きでよく見ていなかったのですが、様子からすると一週間くらい咲いていたかも・・・





ポリゴナム  花は春~秋   ヒマラヤ原産だそうで、咲いているのも納得
(こちらもピンボケ気味)




菊の仲間・・?よくわかりません・・
夏お休みして、また咲いています




秋色マリーゴールド 種まきしたもの





カラミンタネペタ、なつからず~とず~と咲いています。
ありがとね~




ビオラ これが元気なのは納得。





最後はこれ。
娘の研修旅行(最近は修学旅行って言わないのですね)のお土産、
このほかにももみじ饅頭と八つ橋と京都のバームクーヘンとお団子と・・・(*´∇`*)
といろいろ買ってきてくれました。
先週の土曜・日曜を挟んで3泊4日

お土産からわかるとおり、広島(厳島)・京都(清水寺)・大阪(USJ)です。

タコ焼きめっちゃおいしかったとか、
電車に乗ってておばさんに席を譲ったら、一緒にトランプをして、地下鉄の行先まで案内して連れて行ってくれて、お昼までまで御馳走になったそうです。

いろいろ楽しかったのはよかったのですが、風邪ももらってきたらしく、しつこい咳が続いています。
空はあまりきれいではなかったそうで、変わった雲とかも見たそうです。

日本全国、調子狂ってるかも?




いわゆるいじめとは違うと思うが、これはいじめだ。



父の自殺を学校で謝罪させられた娘


 「これからもよろしくお願いしますと頭を下げろ」

 自殺者の遺族に向けられる差別偏見の解消を目指すNPO法人「セレニティー」(東京)。その代表理事を務める田口まゆさん(39)には今も忘れられない思い出がある。

 中学1年生のとき田口さんの父=当時(39)=が亡くなった。突然行方不明になり数日後、自宅から遠く離れた山中で遺体が見つかった。

 父親の死は中国地方の小都市ではすぐに知れ渡った。父親の喪が明け、中学校に登校した日、朝礼の時間に担任の教師が突然、田口さんをクラスメートの前に立たせ、謝罪をさせたのだ。

 田口さんは「小さな町を騒がせたことを謝れということなんだろうか。なんで?と思いました。でも、当時は頭を下げなければいけない人間になってしまったと思い、抵抗できなかった。大切な父を失ったショックに加えて、父への怒りがわいた」と振り返る。

(中略)

3年、5年、10年…たっても消えない、苦しい感情。抜け出すきっかけを求めて、担任に会いに行くことを決めた。すでに校長になっていた教師は快く会ってくれた。

 田口さんが「頭を下げなければいけなかったこと、本当につらくて。なぜなのか聞きたくて」とたずねると、返ってきた答えは「覚えていない」だった。「先生は、そのあと笑って『そんなこと気にしてるから結婚できないんだぞ』とまで言ったんです」

 解決の糸口はまるで見つからなかった。行き場を失った心情を、自殺者の遺族同士が語り合う「分かち合いの会」で打ち明けた。

 そこで遺族の会のメンバーは田口さん以上に怒りを表したという。「『教師が悪い』と言ってくれたんです。初めて、私はおかしくない、もっと怒っていいんだと思えたんです」と振り返る。20年以上の歳月が流れていた。



全文は以下

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121109/wlf12110911020004-n1.htm


父の自殺で辛い思いをしている教え子に向かって、「皆の前で謝罪しろ」

そうして自分が言ったことはすっかり忘れている・・・(もしくは覚えてはいても忘れたと嘘をつく)
長年、抱えてきた苦しみ、しかしその苦しみを与えた本人は忘却している。
残酷な話である。


けれど、よくある話じゃないかな。
言ったりやったりした方は、痛みをともわないから覚えていないのだ。

もし、痛みに共感できる人、思いやりのある人だったら、たとえ実際に覚えてなかったとしても、「それは申し訳ないことをしたね、すまなかったね」と謝るだろう。
その教え子がずっとつらい気持ちを抱えて生きてきたのは、事実なのだから。


こういう人間の特徴は、想像力がない、共感力がないということかしら。
もし、自分の父が自殺したら・・・、もし自分がいじめられるほうなら・・
と言うことが考えられない。

つまり、あまりお利口でない≒愚か。

自分が誰かをやっつける、当然、自分が誰かにやっつけられることもあるだろう。
それでも、誰かをやっつけなければ気が済まない、
とどのつまり、その規模を大きくしたものが戦争だ。


争いあい、やっつけあっている間に、
漁夫の利(軍需産業=商人≒支配者階級=戦争の前線に立つことのないもの、いてもすぐに安全なところに逃げられる人間たち)を持っていかれているのに永遠に気づかない
というのは、こういう人間たちなのかもしれない。



以下、やっと書き上げました。
書いていてつらいのでどうしても時間がかかります。


児童虐待・親に殺された魂を悼むために  

http://www5.ocn.ne.jp/~iranka/jidougyakutai.html



さて、昨今、にわかに注目され増加しているかのように見える児童虐待、および放置による児童の死亡ですが、平成、2000年を過ぎたいまよりも、昭和時代のほうが多かったのかもしれません。


参考
児童虐待についての基本データ
http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/archives/52175200.html


なお、親が育児を放棄したような事件は、警察庁『犯罪統計書』の少年の福祉を害する犯罪のうち「保護責任者による幼者遺棄」の統計で判ります。いまたまたま手元にある資料から検挙者数を見てみますと、昭和34年80人、昭和36年64人、昭和37年80人、昭和39年68人、昭和40年67人で、最近はと云いますと、平成18年20人、平成19年16人、平成20年18人となっています。親が子どもの養育を放棄して逮捕されるのは四分の一まで減ってます。子供の数は半分ほどになっているので、子供の人口比でも半分に減ってますな。
虐待につきましては、同じく少年の福祉を害する犯罪のうち「保護者等による第二七章(傷害)の罪」を見れば判りますが、検挙者数は昭和34年110人、昭和36年84人、昭和37年35人、昭和39年57人、昭和40年78人で、この「保護者等」というのがどこまでの範囲なのかよく判りませんが、実父母、養父母、継父母、内縁関係、祖父母などその他の保護者を含めた児童(18歳未満)への傷害罪の平成20年の検挙者数は、144人となっています。


日本の経済成長に合わせるように昭和三十年代半ばから順調に減っているのに、子どもの場合は、同じく昭和三十年代半ばから一度は減ったように見えて、団塊世代が親になると数だけではなくて率でもまた元の水準に戻ってしまうのです。団塊ジュニアの受難はこんな時からすでに始まっていたのでした。
もっとも、団塊ジュニアの親は団塊世代よりもひとつ上の戦前戦中生まれのアプレ世代が多いそうで、あらゆる面で凶悪凶暴なこの世代の本領が発揮されたということなのやもしれません。



児童虐待について公の機関がまとめた詳細な統計というものはないようです。
いろいろと報道&騒がれながらも、実態解明がなされないとうのは、精神科病院の実情や、自殺者の検死(自殺た他殺か?)、冤罪、震災間れ予算の分捕り合戦とか、なんでもうやむやにする日本の美徳の一つなのでしょう。
官僚とやらはお給料はたくさんもらっても、その仕事の中身は、支配者階級のための下請け仕事であって、大多数の人口を占める国民、庶民、平民のためではないのですから、致し方ありませんが。




児童虐待ですが、この概念が成立したのは、1900年も半ばを過ぎてから、つまり20世紀になってから、
それまではよくて躾、大人の所有物、道具みたいな感覚は当たり前だったのでしょうね。
人権概念でさえ、15世紀過ぎ、奴隷階級はそのままでしたし、インドでは近年に至るまで厳格なカーストが存在していましたし、肌の色による差別は今もまだまだありますし、

酷いことがたくさんある世の中ですけれど、それでもやっと人間はここまでたどり着けたのかもしれませんね。苦い笑い




来年はバラに挑戦しようと思って読み始めたブログに、こんなことが・・・・

先日、5日から一週間ほど高温になる、植物関係者は要注意、と高温注意報が出ていました。
この時期の高温注意報なんか聞いたことないですよね。
どう注意すればいいんでしょうね。
無理だよなー、天に任すしかない


そうなのです。暖かいです。

雨が多くて、家の中もなんとなく生ぬるい暖かさ、

タイヤを冬タイヤにいつ交換しようとか、悩みだすのに今年はそんな気にならない。

庭のパンジーは結構元気、
秋花壇作ってよかった~これはちょっと得した気分。


海水はやはり1度~2度高いですね。

http://www.data.kishou.go.jp/db/hakodate/daily/sst_h.html

雲も下側が黒くて厚い雲で、時折強い雨を降らせます。
なんだかスコールっぽい。

普通じゃないですね~
















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kisaraki
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主婦・母親・自由業・他
趣味:
読書・ガーデニング・カメラ他
自己紹介:
生まれと育ちは関東地方
引っ越し(家の売買も含め)7回を経て札幌郊外に
現在は築32年の家をリノベーションしたもの。
100坪以上の庭も改造中








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